沼津の観光パンフレット

 前のページにも書いたが、住んでいたのは裾野市や長泉町だが何かと用があれば沼津に出かけていた。静岡県に住んでいたのはたったの8年半程度だが、今住んでいる横須賀や育った街・秩父に次いで3番目に長く、大学・大学院時代に6年住んだ仙台よりも長い。
 期間は短くても、就職や結婚という人生で節目の時を迎え、将来を見据えて希望に満ちた時代を過ごした街は忘れることができない想い出の街である。

 そういうわけで絵はがきや街のガイドブックなどをヤフオク!で探しているのだが、これまで、自分が過ごした時期の適当な物は見つからなかった。少し古くなるが、昭40頃 静岡【沼津】写真案内C *20㌻、沼津市役所,観光課発行*という商品名のパンフレットがあったので落札した(2022年12月)。出品時の価格の1,000円は高いので敬遠していたのだが、誰かの入札が入ったので本気で落札するつもりもなく、対抗して1,100円で入札したら、そのまま落札となったしまった。送料の180円を加えると投資額は1,280円。内容を見ると、ちょっと古く、高い買い物をした、という気分なってしまった。

 パンフレットを見ると市の人口が概略15万3千と書かれている。ネットで調べてみると昭和40年(1965年)の人口は、15万人を超えており、このパンフレットは昭和35年(1960年)から40年の間に発行された物の様である。私が裾野、長泉に住んでいたのは1973年(昭和48年)の6月くらいから1982年(昭和57年)の3月までであり、少し時代がずれている。

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大瀬崎:沼津から富士山は良く見える。とりわけ大瀬(おせ)の方に出ると綺麗に見える。
長泉(及び裾野)に住んでいた時には毎日朝晩、時には夜にも富士山を見ていた。江戸時代噴火した宝永山が右側にあり、北斎の浮世絵の様に右側の裾野が細く長く伸びていてとても綺麗で、今でも一番好きな富士山の姿である(妻も同じ感想を持っている)。夏の夜には富士山の形の中に登山する人たちの持つ明かりが連なって見えた。それに比べると沼津から見る富士山は左右対称の綺麗な形である。それはそれで美しさを感じる。因みに、後年、他の会社に移って甲府に単身赴任したことがあり、その時にも毎日の様に朝に晩に、時には仕事をしている昼にも会社から富士山を見た。山梨から見る富士は横山大観の描く富士であり、雄々しくますらおである。山梨の人は、その富士山が好きらしいが、私は長泉や沼津から見た富士の方を好む(富士市の方から見た富士も嫌いではないが、好きでもない)。

千本浜公園:行ったことはあると思うが記憶(及び記録)はない。千本浜の脇は車では通ったろうが。
静浦、牛臥、我入道:名前には記憶があるが、行ったかどうかの記憶はない。浜の脇は、車で通ったりはしているだろう。

三津浜:中学3年生の修学旅行(1963年)で韮山の反射炉に行った時に一泊した場所である。写真はちょうどその頃の物と思われる。その時には、三津のシーパラダイスにも行った。住んでからも三津浜には行った。独身時代には会社の同期の友人と二人で、結婚してからは妻と二人で、すぐそばに停泊していたスカンジナビア号で食事を摂ったりもした。

商店街:駅の玄関口からまっすぐ伸びる商店街には、西武デパートがあったり、鰻屋があったりした。
駅のすぐ前には、わたやす(寝具、インテリア)、その左の方には、たしかニチイや貸レコード屋やキャバレー(私が三島のバーで出会って好きになったホステス美雪さんーバーのママの娘ーが移っていった店)があったりした。本屋(マルサン書店:取寄せ本の受付の女性を好きになったりした)は市役所の方にあった。その先には、友の車で登った香貫山もあった。

花火大会:もちろん見物に行った。
狩野川の脇の道には、休みのたびに一緒に飲んだ後で映画のオールナイトを見に行き、友の車を駐車した思い出がある(その友も、私が他の会社に移ってから、西ドイツのデュッセルドルフに作った合弁会社に栄転したのだが、帰国後、若くして自ら命を絶ってしまった。私にとっては、今になってもとても信じられない悲しい思い出をも思い出させてしまう)。