昭和30年前後の秩父市の絵はがき

 私は生まれた時から高校生まで秩父市街地に住んでいたが、当時は貧乏で家にはカメラもなく、父が知り合いに頼んで撮ってもらった兄と二人で並ぶスナップ写真と学校行事での集合写真しか持っていない。
 絵はがきは、当時の街中を知る貴重な資料である。

産業会館

 産業会館は、昭和26年に秩父公園に建てられた(今は取り壊されて存在しない)。昭和30年頃は、山下清展やNHKののど自慢が催されたり、小学校の学芸会などが開かれたりして秩父市の文化の中心的役割を果たした建物である。。かく言う私も、この大舞台で、小学1年の時に「大きなかぶ」の孫役を演じた。

秩父神社

 日本有数の古い神社として有名である。社殿には、左甚五郎作と伝えられる「つなぎの龍」などの彫刻が飾られている。近年は、パワースポットとしてみなされ、観光客が多く訪れるようになっている。

羊山公園より秩父市街

 当時、羊山公園は、姿の池でボートに乗ったり、羊(緬羊)も飼われていたことから市民の憩いの場であった。街中からは歩いて行ったものである。絵はがきでは分からないが、多分、家々の屋根はセメント工場の煤煙が積もって白くなっていたはずである。

夜の秩父市街

    夜でも結構明るい。手前の大きな煙突は秩父セメントの煙突であろう。市民の多くが、秩父セメント、昭和電工、絹織物産業に依存していた。

絵はがきの袋

 絵はがきが入っていた袋の図柄は、武甲山であろうが、微妙に山容が違うような気がする。

 イチョウは、秩父神社の象徴であるとともに秩父市の象徴でもある。

 都邑とは、いかなる意味なのか、広辞苑で調べてみた。

「みやことむら」、「繁華なまち」とある。ここに書かれているのは、どちらの意味なのだろうか?私は、当時、賑やかな街であったので、「繁華なまち」と捉えたい。
 埼玉県は、現在、市が日本一多いい県であるが、秩父市は昭和25年に県で6番目に制定されている。工業立地の街として、絹織物の産地として、また中山道の裏街道の要衝の地として、古くから賑わっていた街であった。